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2011.05.10 (Tue)

雨の麻布十番でこんな夢を見た

 自分がこのGWでやったこと。

 4月30日。
Image163.jpg
 久しぶりに都内の大きな店でCDを漁りたくなったので、どこに行こうか迷った末渋谷に出るが、なぜか楽器屋ばかり回り、ギターが欲しいのをぐっとこらえてお買い得のエフェクター(ワウペダル)を買って帰ってくる。喜楽という有名な店でラーメンを食った。予想外にうまい。

 5月4日。
Image164.jpg
 近所の浅間山(せんげんやま)という、武蔵野の忘れ形見みたいな丘に花を見に行った。


 それだけ。
 動いたの二日だけ。


 最近不調で、うまく動けなかった。
 睡眠時間のコントロールが利かず、完全に昼夜逆転していたり、ひたすら横になっていたりで、街へ出る、という意欲自体が出てこなくなってしまったのだ。
 せっかくワウペダル買っても、肝心のギターを弾く気が起きない。
 職を辞しても、五月病が来るということをはじめて知った。


 完全ダメ人間でした。
 普段「愚弟」と呼んでいる我が弟の方がよっぽど真人間に近い。


 ムラコシです。


 今日は自分の観念的なものを吐きます。つまらんからよろしく。



【More・・・】

*****


 何か思春期の中二が考えそうなことだが、自分は一体何なのかと、最近よく考える。
 会社の手駒として、これまでさんざん「必要」とされてきたことは事実であり、それは非常に有難いことであった。でも、そういう意味でなく、自分は誰かに必要とされているのか、「居て欲しい」と誰かに思われているのか、ということを考えてしまうのだ。
 職を辞し、社会的な肩書を失って、改めて個としての自分の意義を考える。

 
 仮に、の話だ。
 勘違いしないで欲しい。あくまでも仮に、だ。


 自分がもし明日、この世からいなくなったとしたら。
 涙を流してくれるだろうと思われる人が何人かいるんだろうな、ということは想像がつく。勘違いかもしれないが。


 では、誰も悲しまなかったとしたら? 
 ドラえもんの道具にある、「石ころ帽子」みたいなものをかぶったときみたいに、誰からもその存在を意識されず、日々を過ごすとしたら、その時自分はどう感じるのか。
 人によってはそれを「解放」と感じ、悟りの境地に達した、なんて思うのかもしれない。
 あるいは、好き勝手できるから好都合、なんて下卑た思考に支配されるのかもしれない。
 でも自分の場合、生と死が等価値になるのではあるまいか、と思った。
 他者との関連性を排した、純粋かつ固有のアイデンティティーというものは、本当に存在するのだろうか。もしないとするならば、誰も自分を認識しない状況下において、存在価値も同時に喪失してしまうのではないだろうか。
 俗に「かまってちゃん」と呼ばれている人々が一番恐怖するところがそこだろう。


 社会から一歩退いた場に立つ自分は今、世間の時間とは異なった時間に生きている。
 波打ち際で遊ぶ幼児のように、時々世間の人々と関わりを持つことで、かろうじて「石ころ帽子」化を避けている状況なんだろうと、思う。
 いや、もっともっと前からそうだったんだろう。もうかれこれ二十年ぐらい。
 自分は社会の一員ではあったが、社会にとけこむふりをして生きていた。ある意味自分というものを別の場に置いて、そこから社会を眺めていたような生き方だった。
 そうでなければ、あんな詩など書けない。


 しかし改めて見れば、なんという危ない橋の上にいるのだろうとも思う。


 事実、ふりをして社会に存在し続けた自分に、変貌を続ける状況に対応するだけの能力はあまりなかった。
 正しいと言うとき、間違いと言われる、と歌ったのは佐野元春だが、あたかもその歌詞のように、自分にとって間違いだと思うことでも社会はそちらの方向へ変化する。望んでも、主張しても、動いても、それは黙殺される。


 本質的に、自分は、社会の中で人と触れ合うのが苦手なんだろう。人を愛することも勿論、人と作り上げた関係が壊れたり、裏切られたりするのが怖いのだろう。


 GW中、特に渋谷の人混みに身を撹拌された日、強烈にそんなことを思い描いた。
 あんなに人がいるのに、表層的に接してきたイシバシ楽器の店員とラーメン喜楽のオヤジを除いて、関わりは殆ど皆無と言ってよかった。
 だから自分は人混みが苦手だ。


 しかし、連休前、今にも雨が降り出しそうな夜の麻布十番を、なぜか一人で歩く自分を、ふと思い出していた。


*****

 
 麻布。実は自分にとってある程度なじみの深い土地である。塾講師時代の入試関連業務のために、ここにあるとある名門校に何度も訪れた。だからどんな場所かは知っている。
 通り過ぎるベンツやBMWが、普段見るベンツ・BMWと1~2ランク違う。ポルシェが普通に路駐してあるのを見たことがある。日本車は殆ど見当たらない。
 大使館とかが密集している土地柄か、外国の住民諸氏が多い。金髪白人とラテン系の子供二人組が、ランドセルを背負って、流暢な日本語で会話しながら下校してゆく光景を見ると、一瞬自意識が行方不明になる。

 そんな場所だ。


 そんな麻布のパキスタン料理の店に、平日の夜、一人で、入る。
 何やってんだ、オレ、と自嘲しつつ。


 階段を降り、地下の客席の片隅を占拠する。片側の壁面に貼られた鏡に映る店内は、都市の地下の湿気を纏いながら、店のインテリアを線対称に揺らしている。


 ビールをツマミに、つい最近どこかで見た中東の踊りを飲む。
 間違ってはいない。ライムが突っこまれた鼻持ちならない気取りを垂れ流す手元の瓶の方がツマミだ。酔うのは踊りが描く円運動の発火の方である。
 どうもこういうとき自分はいろいろと余所見をする癖があるらしく、さっきの鏡に映る踊りをスルスルと見ながら、頼んで後悔した多すぎるガーリックナンを齧る。




 唐突に、後ろめたさを感じる。
 誰かと話したり、関わったり、愛したり、助けたり、そんな行為をしようと欲する自分が、ふと、焦げたナンの皮のように思えた。



 ゆく川の流れは絶えずして云々。
 その川の流れを、川岸から眺めるだけの自分。
 自分は怖いのだ。
 また、取り残されるんだろう。また、同じような目にあう。何度望んでも、何度祈っても、奇跡の存在など許されない。そんなことツァラトゥストラの昔から自明だ。
 それでも望んでしまうのが、人間か。
 本質は個である人間。だからこそ手を伸ばそうとする。
 逃げて、たたらを踏んで、つまずいて、転げまわって、膝をすりむいて、足を捻って、

 それでも誰かを求めようとする。



 鏡の向こうのサイケデリックな空間で、踊り子が手をこちらに伸ばした。



 誰かの意識の中に、自らの存在を遺すことで、アイデンティティと為す。
 たったそれだけの簡単なことなのだ。
 思っていて欲しい、覚えていて欲しいだけなのだ。


 まさにそれを実行している、目の前で舞う妖精が鏡の中で輝きを増す。
 都会の地下は、そんな人々の思いが集まる場と化していた。





 突如、言語の断片が涙のようにあふれだしてきた。
 最近の自分にとって、らしくない久しぶりの展開。
 もちろんすぐに詩になるわけではない。これを詩にするにはまたしばらく時間がかかるだろう。だが、その言葉の断片すら枯渇し始めていた自分には驚愕極まりない瞬間であった。
 ペンがないので、必死にモタモタと携帯のボタンを押し続けながら、ナンをカレーに浸した。


 何だろう、結局自分も人間の部分を欲してしまうのか。
 また、同じような目に遇うかもしれないのに、また、手に入れたいと思ってしまった。
 自分は何故生きるのかという問への答えは、ひょっとするとまた間違いと言われるのかもしれないが、でも生きては行ける。


 昔と同じ仕事に就くことは、いまのところおそらくないのだろう。
 しかし、その過去が、たとえ「ふり」をしていた自分がやったピエロじみた行為だったとしても、まちがいなくそこに自分が存在していた証左となるに違いない。



 後日、

 昔習った先生のことはいつまでも覚えているものだ。

 と、踊り子が言っていた。


 ありがとう、それだけでも生きてゆける。

 なんだか、嬉しかったんだ。



 地下から地上へと再びよじ登ると、雨。
 そういえばいつぞやの下北沢も、雨が降っていた。


*****


 また流れの中に入るには、現状を見るとまだ時間がかかりそうだ。去年考えていたときよりも、相当。
 それでも、また、性懲りもなく街へ出て行こうとする自分は、少しだけ回復しつつあるのかもしれない。


 そう考えることにした。

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